|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 大雪 : [たいせつ] (n) heavy snow ・ 雪 : [ゆき] 【名詞】 1. snow ・ 丸 : [まる] 【名詞】 1. (1) circle 2. (2) full (month) 3. (3) perfection 4. purity 5. (4) suffix for ship names ・ 代 : [よ, しろ] 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation
大雪丸(たいせつまる、Taisetsu Maru)は、国鉄ならびにJR北海道の青函航路で運航された車載客船で、青函連絡船の大雪丸としては2代目であった。 津軽丸型の第4船で、同型船には津軽丸・八甲田丸・松前丸・摩周丸・羊蹄丸・十和田丸がある。 == 概要 == ※詳細は津軽丸 (2代)参照 1963年(昭和38年)8月、「青函連絡船取替等計画委員会」は、当時青函航路の主力であった船質の良くない戦時標準船、またはそれに準じる連絡船の早期取替えと、高度経済成長により、急増する旅客・貨物に対応するため、1965年(昭和40年)までに該当する9隻を廃船にし、新造する6隻の高速車載客船で置き換える、という最終報告を出し、これに沿って、津軽丸型が続々と建造され〔青函連絡船史p72~75 国鉄青函船舶鉄道管理局1970〕〔古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p160 成山堂書店1988〕、本船はその第4船として1964年(昭和39年)7月7日、三菱重工横浜造船所で起工され、1965年(昭和40年)4月20日竣工、同年5月16日に青函航路に就航した。 津軽丸型 は洞爺丸事件や宇高連絡船 紫雲丸事件を教訓として設計された高い安全性と、当時の国鉄連絡船としては最多となる ワム換算48両の車両を積載し、従来の車載客船に迫る1,200名の旅客を乗せ、青森-函館間を3時間50分で運航できる高速性能を持ち、従来の車載客船の半分以下の53名で運航できる自動化船であった〔。 安全性確保のためには、車両甲板船尾開口部への水密扉設置のほか、車両甲板下の船体を12 枚の水密隔壁で13区画に分け、隣接する2区画に浸水しても沈まない構造とし、更に船体中央部の5区画では、船底だけでなく側面もヒーリングタンク等で二重構造とした〔古川達郎 続連絡船ドックp166 船舶技術協会1971〕〔古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p168 成山堂書店1988〕。 主機械には背の低い中速ディーゼルエンジン8台を搭載するマルチプルエンジン方式を採用して、機関室天井の低い車載客船での大出力化を図って航海速力を上げ、推進用プロペラには当時日本最大の可変ピッチプロペラ(Controllable Pitch Propeller CPP)を用い、同じく可変ピッチプロペラ式のバウスラスター (Bow Thruster BT)も装備し、これらを操舵室から遠隔操縦することで、操船性能を格段に向上させた。 旅客定員は、2段寝台の4人部屋1等寝台室5室20名、1人掛けで背ずりが65度リクライニングしレッグレスト付きで寝台代用にもなる1等指定椅子席が96名、当時の特急1等車2人掛けシートに準じた背ずりが49度リクライニングするフットレスト付き1等椅子席120名、カーペット敷きの1等雑居席94名で、1等合計330名。当時の特急2等車の2人掛けシートに準じたリクライニングしない2等椅子席324名、カーペット敷きの2等雑居席546名で、2等合計870名であった。 本船は津軽丸(2代)就航後に起工された初めての船で、若干の仕様変更も見られた。前3隻では、車両格納所火災時には熱感知したスプリンクラーが自動放水する体制であったが、これをより実情に合った手動放水に変更し〔津軽丸型前3隻では79℃で自動放水する2系統のスプリンクラーを装備していたが、これでは熱を受けなければ放水せず、前3隻以来、車両格納所には煙感知性能に優れたイオン式火災感知器を装備していたため、本船以降は、この警報を受け、操舵室後壁の火災警報盤から遠隔手動で9系統のスプリンクラーを最大3系統同時放水して延焼を防ぐ体制とした:古川達郎 続連絡船ドックp167 p172~174 船舶技術協会1971〕、技術の進歩によるボイスアラームの改良や〔泉益生 連絡船のメモ(下巻)p321~329 船舶技術協会1977〕、旅客食堂や操舵室前面窓の大型化〔操舵室前面窓タテ寸法89.5cm(前3隻は84.5cm):泉益生 連絡船のメモ(下巻)p201 船舶技術協会1977〕のほか、後述の機関部重量増対策や操舵室のプロペラ制御盤の改良も行われた。 なお、津軽丸型の塗色は、当初、建造する造船所に一任されており、本船は建造中から公式試運転までは、外舷下部がうす緑色(5G7/6)、外舷上部が乳白(7.5Y9/0.5)、煙突がうすいピンク色(5YR7/6)と、当時既に就航していた第2船の八甲田丸と同じであったため、艤装員〔新造船の機器取扱い習熟のため、進水以降に造船所に派遣される乗組員:田中正吾 青函連絡船洞爺丸転覆の謎p193 交通研究協会 成山堂書店1997〕からの要請で、竣工直前に煙突のみ暗い緑色(2.5G3/5)に変更して就航した〔NHK映像マップみちしる新型青函連絡船「大雪丸」初の公式試運転 〕。それでも八甲田丸・松前丸(2代)・本船と3隻続けて、外舷下部色が明るい緑の似た色になってしまったため、就航翌年の1966年(昭和41年)3月には、外舷下部色を煙突と同じ暗い緑色(2.5G3/5)に、外舷上部はクリーム色(2.5Y9/4)に変更し〔古川達郎 続連絡船ドックp293~295 船舶技術協会1971〕〔古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p230~235 船舶技術協会1971〕、終航までこの色で通した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大雪丸 (2代)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|